原作「ペインティッド・バード」を読んだ多くの人は、その暴力と残虐性にショックを受けた。イェジー・コシンスキの暴力の概念はすごく不快だと思う人もいるだろう。だがこれは一次元的でもないし、二次元的ですらない。コシンスキにとって暴力とは人類の本質を明らかにするものだ。
この名作小説の映画化で私が目指したことは、主人公が経験する度重なる人間の魂の闇のまさに中心へと導く一連の旅を、絵画的に描写にすることだった。各パートは、視覚的な手がかりで、大きな絵画の失われた断片であり、それらはキャンバスの上で主人公を最終的なカタルシスに向けて形作っていく。それらの層は徐々に剥がれ落ち、最終章までに観客は、ようやく真実を見つけた主人公の核心に辿り着く。「ペインティッド・バード」の魂は詩である。物語のバラードの精神、静かな緊迫感、そして主人公の少年の鮮やかな内なる世界である。周りで恐ろしいことが起こるにもかかわらず、彼の本質は美しい。
また本作は、歴史的な時代を背景に雄大な自然の中で、少年が出会う人々の物語でもある。これらのキャラクターを愛したり、その運命を嘆き悲しんだりすることは必ずしも重要ではない。私たちが彼らを見て、証人となることが大事なのだ。
私は断固として哀れみを避け、使い古された決まり文句、搾取的なメロドラマ、人工的な感情を呼び起こすような音楽を排除しようとした。絶対的な静寂は、どんな音楽よりも際立ち、感情的に満たされる。
35mmの白黒フィルム、1:2.35アスペクト比で撮影した。シネマスコープという画郭は、豊かに感情に訴えるフォーマットだ。他のフォーマットでは、このような正確さと力で、画面上に映し出される美しさと残酷さの両方を捉えることはできない。デジタル画像の品質は、特にその生々しさを失うため、感触としては古典的なネガを下回る。そして画の本質的な真実性と緊迫感をしっかりと捉えるために白黒で撮影した。
ストーリーテリングのスタイルは口語的ではなく、映画的である。内的独白や説明的なナレーションはない。そして、現実感を保つためにストーリー順で撮影した。その結果、子役の成長は主人公の進化と成長を反映している。
小説の中で、コシンスキは物語の舞台がどこに設定されているかを明確に述べてはいない。東ヨーロッパのどこかで特別な言葉が話される場所としてのみ説明されている。だからドイツとロシアの兵士が母国語で話す中で、その他の部分はスラブ言語全てを混ぜた言語で撮ることを選んだ。英語では絶対に撮りたくなかった。英語ではストーリーの信頼性が失われてしまうからだ。
この映画のテンポは、流れる川の速度に設定されている。予測不可能であり、そのリズムは絶えず変化する。この演出的アプローチは、観客が画面上で展開する出来事を体験し、大きな感情的緊張と解決の瞬間の両方を本質的に生きられるようにした。
「異端の鳥」を撮影し、小説の本質を捉えようとすることは非常に困難な作業だった。映画の観客と小説の読者に同じ疑問を抱いてほしいと思う。本作で“コシンスキの「ペインティッド・バード」”という名のドアの鍵を見つけられたのであれば嬉しいことだ。
最後に、コシンスキの自伝と小説「ペインティッド・バード」の構想との関係をめぐる論争はもちろん把握している。私は単に、長きに愛される名作である小説を独立した存在としてそのままに扱うことを選んだだけだ。コシンスキの話を、悲劇さはそのままに、皆さんに委ねる。
ヴァーツラフ・マルホウル