天使製造者(エンジェル・メイカー)~天使を作る人~
警告: この記事には殺人や暴力に関する記述が含まれています
1920年のある日、乳児を抱いた若い女性カロリーネ・アーゲセンがコペンハーゲンの路地にある小さなアパートのドアをノックした。生後2か月の布で覆われた女児は婚外子であり、それが理由でカロリーネたちは政府の経済的支援を受けることができなかったのだ。
ドアを開けたのは、ダウマ・オウアビューという30代の女性で、彼女は感じの良い笑顔を浮かべて彼らを迎え入れた。この女性は貧しい人々の間では有名な存在だった。彼女は非嫡出子を引き取り、裕福な家庭に里子に出してくれるという。そうすれば、愛しいわが子とは離れ離れになっても、少なくとも子供は飢えることはなく美味しい物を食べ、暖かい服を着ることができるからだ。ダウマは手慣れたしぐさで子供を抱き抱え、居心地のよいリビングに若い母親を案内した。ストーブが炊かれた部屋は暖かく、ダウマは「外は寒いでしょう。ゆっくりくつろいで」と悲しい顔をした母親に優しく話しかける。
手続きの間、カロリーネは悲しみを隠すことが出来ず頬には涙が伝ったが、結局彼女は一人でダウマのアパートを出ると小道を駆け下りた。彼女が最後に見た光景は、二階の窓から自分の娘の小さな手を取って、こちらに手を振るダウマの聖母のような微笑みだった。
「これで、あの子は幸せになれる」彼女は貫かれるような胸の苦しみを抱えながらも、今後の娘の幸せを強く祈った。
だが現実には、幼子の命は数時間後には終わっていた。
ダウマ・オウアビューは、なぜ殺人者になったのか?
デンマークには殺人者がいないわけではないが、シリアルキラーと呼ばれるのは、ダウマ・オウアビューぐらいだという。彼女が残忍な殺人を犯してから100年以上が経ったにもかかわらず、彼女は今でもデンマーク唯一の連続殺人犯として知られている。その背景には、当時の政府がダウマの餌食となった人々に対して見て見ぬふりをしていたという事実があった。第一次世界大戦後、デンマークには夫が戦死したためにシングルマザーとなった女性たちが多くいたが、人々は婚外子に全く興味がなかった。ダウマがこれほど多くの子供たちを殺害できたのは、当時のシングルマザー達への蔑みの目や迫害があったからだという。
ダウマは1887年、デンマーク第二の都市であるオーフス近郊に生まれた。両親や兄弟たちと暮らした家は極貧で、ダウマは幼いころから激しい気性で頻繁に噓をつき、盗みや揉め事を起こしていた。成長するにつれ、素行はますます悪くなり、奉公先で窃盗を繰り返して度々逮捕されていた。23歳の時に、彼女は使用人との間に息子を婚外子として出産した。その後、次々に子供を産んだが、どれも父親の違う子供たちだった。子供たちは乱雑に納屋に押し込まれ、長男は1歳の時に肺炎で亡くなった。その後、ダウマは魚屋のアントンという男と結婚し、二人の間にはイレ―ナという娘が生まれた。しかし、この結婚はうまくいかず、ダウマはイレ―ナを連れて夫の元を離れた。それから彼女は何度か妊娠を繰り返したが、生活はますます貧しくなるばかりだった。そのため、彼女はより良い暮らしをするために都会であるコペンハーゲンに転居することにした。その時、彼女が連れていた子供はイレ―ナだけだった。
ダウマはコペンハーゲンでキャンディショップを開業したものの、ビジネスは成功せず、運の悪いことに深刻な骨盤疾患を患い、数度の入院が必要となってしまった。それは無理な出産のせいだったのかもしれないが、苦しみから逃れるために彼女はエーテルとコカインの両方に依存するようになってしまった。ようやく退院できたものの、ダウマは幼いイレ―ナと二人きりで仕事もお金もない状態だった。ある日、彼女は新聞に掲載されていた広告を目にする。そこにはこんなことが書いてあった――「子供の引き取り手を探しています」と。そして、その広告は彼女を殺人へと導いていくことになる。
変貌する
ヤスミン・イェンセンという名の若い女性は、生まれたばかりの息子ハリーを養子にしてくれる人を探していた。ヤスミンは、子供の世話をしてくれる人に毎月12クローネを寄付すると申し出た。ダウマは、それを聞いて子供を引き取ることを約束する。
1900年代初頭においても、こういった登録や書面もなしに子供を授かったり受け取ったりすることは違法だった。しかし、実際には当局はその規則を無視し、取り締まりを行うことに全く関心がなかった。その証拠に女性が子供の里親を募集する広告は数多くあり、警察や当局はまったく興味を示さなかったという。ほどなくダウマはハリーを絞め殺し、子供の体を墓地の人目につかないところに投げ入れた。遺体が見つかった後で、警察は目撃者がいないかと周囲に呼びかけたが、それに応じた者はいなかった。
そしてこれは、始まりに過ぎなかった。ダウマはその後、家に帰って新しい新聞広告に目星をつけた。中には貧しい者もブルジョワ出身の者もいたが、そのすべてが非嫡出子を持つ女性たちだった。若い女性にとって、当時一人で子育てをしながら仕事をするのは事実上不可能であり、彼らは皆、絶望的な状況下にあった。裕福な者でさえシングルマザーの名を着せられることを避け、自ら子供をダウマに差し出した。
その後の4か月間、ダウマは望まれない子供5人を次々に殺害した。
ダウマは子供を絞殺すると、アパートにあるタイル張りのストーブに死体を投げ込んで焼却処分した。死体が燃えて室内に悪臭が蔓延する最中、彼女は買い物のために外出をしていたという。
こうして彼女は短期間のうちに、深刻な経済危機に陥った女性から連続殺人犯へと変貌したのだった。
ストーブの骨
1920年のその日、殺人は突然終わりを迎えた。数日前、涙ながらに娘をダウマに渡したカロリーネは、その後深く後悔し、娘を取り戻そうとしたがダウマはそれを拒否した。疑念を抱いたカロリーネが娘の居所をダウマに問いただしたところ、彼女は様々な矛盾をした説明をしながら、居場所をはぐらかした。警察は当初、この事件の捜査に非協力的だったが、ダウマの証言が次々と変わることに気づき、ようやく彼女の自宅を捜索した。
部屋には動物の毛を処理せずそのまま燃やしたような嫌な臭いが充満していた。やがて警官のひとりがタイル張りのストーブの前の床に、大量の灰があるのに気が付いた。中には大小の白い塊がいくつも混じっていた。それは、数人分の子供の骨と頭蓋骨の残骸でカロリーネの娘の子供の遺骨も、ここで発見されたのだった。
デンマーク史上、最も物議を醸した裁判
ダウマがさらに多くの殺人を自白し始めるまでには、それほど時間はかからなかった。母親の中には、新聞に載った殺人者の顔が、自分たちが赤ん坊を預けた女性だと気が付いた者もいた。ダウマは9人の幼児の殺害で有罪判決を受けたが、実際には16人の幼児の殺害を自白した。彼女は動機について、最初は金銭目的の殺人だったが、その後状況が変わったと説明した。殺人をする前、彼女は極度の空虚感に襲われたという。常用していたエーテルとコカインが精神的な悪影響をあたえたのかもしれない。だが、今もなおダウマがなぜ連続殺人犯となったのかは、正確には分かっていない。新聞はダウマを「天使製造者(エンジェルメーカー)」と書き立てた。当時、洗礼を受けていない幼い子供たちは、まだ人ではなく天使と同等の存在なのだと考えられていたからだ。裁判の際、ダウマの弁護側は、彼女は単に「欠陥のある社会と無関心な母親」の産物であり、最も弱い立場の人々を痛めつけている社会のシステムから生まれた道具に過ぎないと主張した。この裁判は各メディアで大きく取り上げられ、多くの人々が関心を寄せ論争を呼んだ。1921年、ダウマ・オウアビューは死刑判決を受けたが、後に終身刑に減刑された。1929年、彼女は獄中で精神を病み、42歳で死亡した。
この事件以降、デンマークでは子供たちの監督体制を確立し、里親を評価することを目的としたいわゆる後見法を制定。同時に、人口登録は厳格化され、子供たちが簡単に姿を消すことは少なくなったという。
著:末軒アサ
参照:https://politi.dk/politimuseet/podcast/2-dagmar-overbye
(コペンハーゲンの警察博物館より)