1936年、イタリア・ミラノの下層中流家庭に生まれる。サレジオ修道会経営の全寮制寄宿学校に入学。成績優秀だったが家が貧しかったため在学中からバンドの歌手やセールスマンなどのアルバイトを始め、親の支援なく自力でミラノ大学法学部を卒業。不動産ブームに目を付け大学卒業とともに建設会社を創立すると、巨大な集合住宅「ミラノ ドゥエ」を開発し、実に1万500棟を完売させた。敷地の上を飛ぶ飛行機が問題となれば、あらゆる手を使って航路変更させた逸話があり、その類まれな商才はもとより、私利私欲のためならどんな道をも切り開くパワーはその頃から顕著だった。建設業界での成功を足掛かりに、次なるターゲットをメディア業界に移したベルルスコーニは、破竹の勢いで大手放送局4局を子会社とし、不動産王に加えてイタリアの「メディア王」としても君臨した。サッカークラブACミラン会長・オーナーとしても活躍。低迷が続いていたACミランは、ベルルスコーニの会長就任後、セリエA三連覇、UEFAチャンピオンズリーグで5度の優勝を果たしている。
一方で、事業拡大のための莫大な資金元はマフィアとの癒着によるものではないかといった数多くの疑惑がある。単なる新興成金だったベルルスコーニは、こうした黒い資金力と人脈を糧に、政界に進出してわずか数カ月で一国の首相にまで成り上がった。三度にわたる政権担当期間の合計は9年に及び、スキャンダルにまみれながらも人並外れたカリスマ性で国民を魅了した。2013年に議員資格を剥奪され議会を追放されたが、支持者らに対し「引退はしない」と宣言。この怪物は2019年5月ついに、欧州議会議員選挙で「フォルツァ・イタリア」から欧州議員に当選。久々に国際政治の表舞台に復帰した。
1994年 | 実業家としての豊富な資金力と企業グループをバックにして新政党「フォルツァ・イタリア」を結成。自由の擁護と共産主義との戦いをスローガンに掲げ、中道右派系の議員を糾合する事に成功。極右政党「国民同盟」(旧「イタリア社会運動」)、地域分離主義を唱える「北部同盟」などと連立を組んで第一次ベルルスコーニ政権を樹立。1995年北部同盟の離反により政権崩壊。 |
---|---|
1996年4月 | 繰り上げ総選挙で再起を図るも、「オリーブの木」の下に左派勢力を糾合したロマーノ・プローディに敗北。 |
2001年 | 政権奪回のための入念な“準備”を進め、野党連合「自由の家」を結成し、総選挙で勝利。第二次ベルルスコーニ政権が発足。5年間の長期政権を維持した。 |
2006年4月 | 総選挙でプローディに二度目の敗北を喫し、第二次ベルルスコーニ政権終了。 |
2008年 | 新党「自由の人民」を結成して第三次ベルルスコーニ政権樹立。政権に返り咲く。 |
2008年5月9日 | 首相就任に伴ってACミランの会長職を退任。 |
2009年4月 | イタリア中部地震(ラクイラ地震)発生。 |
2009年5月 | 18歳のモデル、ノエミ・レティツィアとの親密な関係が発覚。 |
2009年7月 | 「ブンガブンガ」と呼ばれる乱交パーティーが発覚、42歳の売春婦を買春した疑惑も浮上。 |
2011年 | ミラノ地裁から未成年者淫行罪と職権乱用罪で起訴される。イタリアが経済危機に陥ったことから、苦境に立たされたベルルスコーニは11月12日に辞表提出。 |
2012年12月 | 引退表明から一転、2013年の総選挙への出馬を表明。当時のモンティ政権が中流・下流階級の国民からの支持を失っていたこともあり、ベルルスコーニは予想外の健闘を示す。 |
2013年 | 「自由の人民」は総選挙で第3党として大政党の地位を守り、政界に復活。2013年主導権争いにより「自由の人民」の党内分裂の動きが起こる。反ベルルスコーニ派は院内会派「新中道右派」を結成。一方ベルルスコーニは11月16日のローマ党大会で「自由の人民」の解散と大連立政権からの離脱を宣言。自身を支持する議員らと「フォルツァ・イタリア」を再結成。 |
2013年11月27日 | ベルルスコーニの議員資格剥奪に関する議会での投票が賛成多数で可決。議会から追放され6年間は被選挙権を剥奪されることになったが、「フォルツァ・イタリア」の党首職には留まった。 |
2019年5月26日 | 欧州議会議員選挙で当選。 |
MENU