CAST & STAFF

STAFF

イリヤ・フルジャノフスキー(監督)
Ilya Khrzhanovskiy

1975年モスクワ生まれ。ボン美術アカデミーで学び、1998年にロシア国立映画研究所(VGIK)の撮影学科を卒業。2005年、長編デビュー作『4』でゴールデン・カクトゥスやロッテルダム国際映画祭のタイガー賞を含む、多数の映画賞を受賞。世界50以上の国際映画祭で公開され、イギリス、イタリア、オランダ、アメリカ、スカンジナビア、南アジアで配給された。
「DAU」シリーズは彼にとって二つ目のプロジェクトで、2006年から制作してきた。これは映画、芸術、人類学を組み合わせた学際的なプロジェクトで、撮影の過程では700時間以上のフッテージが撮影された。

プロジェクトの中から選ばれた素材の一部(音、アート、ストーリーなど)が、パリ市庁舎の支援を受けて、2019年初めにパリでプレミア上映された。人々を「DAU」の世界へ没頭させるこのイベントは、パリ市立劇場とシャトレ座という2つのパリの劇場で行われた。また、ポンピドゥー・センターでの展示は、「DAU」施設の雰囲気を再現し、施設内に住んでいた様々な人物たちも登場した。彼はまたヨーロッパ映画アカデミーとロシア映画監督協会両方のメンバーである。

イリヤ・ペルミャコフ(共同監督)
ILYA PERMYAKOV

ロシア出身のオーディオ・ビジュアル・アートディレクター。哲学の研究者としてキャリアをスタートさせ、マルティン・ハイデガーの哲学とパウル・ツェランとオシップ・マンデルスタムの詩に関する博士号を2003年に取得。2008年、ビデオアート作品「Gazing」で、第30回モスクワ国際映画祭のIXメディアフォーラムのグランプリを受賞。彼の作品は、MMOMA(モスクワ)やテート・モダン(ロンドン)などの美術館やアートギャラリーで展示されている。2008年から2012年にかけて、ペルミャコフは映画『Nazidanie(原題)』(ボリス・ユハナノフ監督)の共同脚本と編集を担当し、同作品は2017年のロカルノ映画祭でプレミア上映された。

2012年にDAUに参加し、共同監督、共同脚本、共同編集を担当。また、DAUアカデミックリサーチの責任者と DAUシンポジアのクリエイティブ・ディレクターも務め、数々の学術会議をリードしてきた。テーマは、「政治的神話の主人公たち:個人や集団はどのようにして歴史になるのか」、「極限との遭遇:信仰、暴力、そして解放を求めて」などで、イギリスの国会議事堂、ケンブリッジ大学、オックスフォード大学、王立協会、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス、フランス・パリのシャトレ劇場とヴィル劇場で行われた。

現在、歴史家のアレキサンダー・エトキンドと共同で、『Pharaohs of Modernity:An Intellectual History of Crypto-Communes』(仮題)という本を執筆中。DAUに関する初の解釈的学術研究で、過去の重要な科学的・政治的経験をまとめ、未来の差し迫った危険を警告する実験としてDAUプロジェクトを描く。

CAST

ドミートリー・カレージン(研究所所長:1956~1960)
Dmitry Borisovich Kaledin
【研究所でのプロフィール】
1911 12月15日生まれ。父は医師免許を持ち、保険代理店を営んでいた。母は専業主婦で、妹が一人いる。
1933 モスクワ国立大学の物理数学科を卒業。
1936 物理数学の博士号を取得。レベデフ物理研究所に勤務。
1938 物理数学の博士になる。学位論文のタイトルは「シンプレクティック解像度の幾何学とトポロジー」
1939 3月、共産党員となる。
1941 レベデフ物理学研究所での役割を終える。前線から離れて研究所で働き始める。
1943 AS USSRの特派員となる。
1946 AS USSRのアカデミー会員となる。
1953 研究所の担当官になる(数理物理学研究所長、副所長)
1954 研究所(内の食堂)のウェイトレス、オルガ・シカバルニャと結婚。
1956 研究所の所長に就任。
1960 研究所長を辞任。
1968 10月8日、研究所の他のスタッフらに、行方不明者として発表される。

受賞歴、名誉、専門性:社会主義労働者の英雄、労働赤旗勲章、レーニン勲章(×2)

【参加者の経歴】

1969年、モスクワに生まれる。1991年、モスクワ物理工科大学で学び、その後マサチューセッツ工科大学に留学。1995年、数理の系譜学で博士号を取得。同年、モスクワ大学で数学の教授に就任。1999年から2000年にかけて、パリのポリテクニークで研究職に就く。2001年から2006年にかけて、客員教授として世界中の数多くの大学で教鞭をとる。2007年、東京大学に勤務し、この間に博士号も取得。2009年、ソウルに移り、韓国高等研究院に勤務。2016年、ロシア科学アカデミーの教授の称号を授与される。研究分野は、複素数代数幾何学、超ケーラーおよびシンプレクティック多様体、ミラー対称性など。

ウラジーミル・アジッポ(MGB / KGB調査官、研究所所長:1968)
Vladimir Andreevich Azhippo
1988 エカテリーノスラフスキー県で農民の家族に生まれる。
1918〜1934 VchK/GPU
1934〜1946 NKVD/NKGB
1946〜1953 MGB
1954〜1967 KGB
1952 KGBの調査官として研究所に来る。
1966 国家安全保障省の少将になる。
1968 研究所の所長に任命。

受賞賞、名誉、専門性:レーニン勲章(×2)、労働赤旗勲章、大祖国戦争の2度勲章、極秘の科学プロジェクトの管理に関する豊富な経験。

【参加者の経歴】

1956年にハリコフで生まれる。ハリコフ大学で心理学の学位を取得。ソヴィエト連邦の刑務所と拘置所で働き始める。その後KGB大佐になり、ウクライナ内務省で20年以上働いた。投獄に関する専門知識、特に囚人と刑務所職員の行動心理学の専門として有名だった。「DAU」の撮影後、ウクライナのアムネスティ委員会のメンバーになり、「DAU」プロジェクトに取り組み続けた。2017年に心臓発作で亡くなる。

アレクセイ・ブリノフ(実験部長)
Alexey Yurevich Blinov
1907 ロシア・モスクワでエンジニアの家族に生まれる。
1925 医療支援学校で勉強を始める。
1928 医療支援学校(1928年現在クララツェトキン医療工科学校と呼ばれる)で研究を完了。
1929 1929年から1937年の間に、英国シェフィールド大学のバーミンガム大学メイソン科学大学、オランダ・ユトレヒト大学に留学。「電力制御および測定機器と測定および制御の方法」「電気機器の適用方法」「通信および制御システムのための最新の電子機器の方法の適用」に関する論文を発表。
1937 A.N.Tupolevの逮捕後、研究所の実験部門の責任者になる。
1942 エネルギーのワイヤレス伝送用のデバイスの開発を開始。エネルギーのワイヤレス伝送に関する機密扱いの博士論文を擁護する。
1952 無線伝送装置に関する作業を終える。

受賞歴、名誉、専門性:物理学の卓越した業績に対するスターリン賞(1952年)、レーニン勲章、赤旗勲章、仕事の卓越性のためのメダル。
※備考:革命や内戦には参加経験なし

【参加者の経歴】

1965年、ソヴィエト連邦・カザンで生まれる。医師として訓練を受けた後、1990年代初頭にイギリスに移り、そこで大規模なレーザー投影を作成。1993年から1996年の間、主にオランダに拠点を置き、科学イベント、音楽、芸術祭、ダンスカンパニーのレーザープロジェクションに取り組んだ。1997年に英国に戻り、インタラクティブなオーディオビジュアルインスタレーションがICAやバービカンセンターなどのギャラリーで展示される。彼の作品には、ワイヤレスネットワークとWiFiに基づく新しいメディアプロジェクトも含まれている。2006年から2016年まで、「DAU」の技術開発を主導した。2019年11月に癌で死去。

アディン・シュタインザルツ(ラビ)
Adin Steinsalt
1892 エルサレムに生まれる。
1960 ベエルシェバ近郊に実験校を設立。カリキュラムと教授法を開発。
1965 イスラエル・タルムード出版研究所を設立。タルムードのアラム語から現代ヘブライ語への翻訳、タルムードの解説に力を入れる。

受賞歴、名誉、専門性:タルムード(※)の現代ヘブライ語、英語、ロシア語、スペイン語への翻訳。米国およびイスラエルの複数の大学で名誉教授を務める。ユダヤ教、科学、芸術、哲学、神秘主義に関する60冊以上の本や記事を執筆。学術機関で講演やセミナーを行う。パブリック・スピーカー。1953年、イスラエル国家賞受賞。
※タルムード:「モーセ五書」に次ぐ権威を持つユダヤ人の聖典。

【参加者の経歴】

1937年、エルサレムに生まれる。10代でバアル・テシューバーになる。ヘブライ大学で数学、物理学、化学を学ぶ。卒業後、いくつかの実験学校を設立し24歳でイスラエル最年少の校長になる。1965年にはタルムード出版のためのイスラエル研究所を設立。2010年、バビロニア・タルムード全巻のヘブライ語版を完成させた。これまでに200万冊以上が配布されている。タルムード、ユダヤ教の神秘主義、ユダヤ人との関係などについて、60冊の本と数百の記事を執筆している。また、モスクワとサンクトペテルブルクにユダヤ人大学を設立。すべてのユダヤ人がタルムードを理解できるようにすることに生涯を捧げている。タイム誌は彼を「千年に一度の学者」と称している。

マクシム・マルツィンケヴィチ(特別実験グループのメンバー)
Maxim Sergeevich Martsinkevich
1941 モスクワに生まれる。
1964 国立モスクワ大学土木工学科卒業。設計工学を専門とする。
1965 発禁処分となった文献(優生学をテーマにしたもの)と憎悪に満ちたイデオロギーを流通させたとして告発される。反ソヴィエトの扇動およびプロパガンダの罪で有罪判決を受ける(RSFSR刑法第70条に基づく)。獄中でKGBに勧誘される。
1966 刑期満了前に釈放される。KGBとソ連の閣僚会議の委託を受けた特別実験グループのメンバーとなる。
1968 一連の実験に参加するために研究所に送られる。
【参加者の経歴】

1984年、モスクワに生まれる。建築専門学校を卒業。ロシア国立社会大学から退学処分を受ける。「Russian Purpose」や「Format 18」など、さまざまなネオナチグループのメンバーとして活動。2008年に、民族的・人種的憎悪を煽った罪で有罪判決を受け、3年間の懲役を言い渡された。入獄中に、2006年に犯した同じ犯罪でも有罪判決を受け、3年の刑期を同時に受ける。2013年には過激派の罪で3度目の有罪判決を受け、5年の刑期を言い渡されるが、その後半分に短縮された。2015年には強盗とフーリガンの罪で起訴され、モスクワの連邦刑務所「Matrosskaya Tishina」で10年の刑に服していた。2020年9月16日、チェリャビンスク州の未決拘置所にて遺体で発見される。36歳だった。モスクワのクンツェヴォ墓地で行われた葬儀には、推定2,000~4,500人の人々が参列した。彼の死を自殺とする公式の発表に疑問を持つ人もいる。

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