1887年、スイスのラ・ショー=ド=フォンに生まれる。本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ。時計の文字盤職人の父とピアノ教師の母を持ち、幼い頃は自身も時計職人を目指していたが、美術学校在学時に建築への関心を芽生えさせる。1920年代から建築家として本格的に活動を始める。機能主義を貫いた「近代建築の5原則」を掲げ、1965年に〈E.1027〉を臨むカップ・マルタンで海水浴中に心臓発作で死去するまで、世界各地に建築史に刻まれる建築作品を多数残す。代表的なものに〈サヴォア邸〉〈ユニテ・ダビダシオン〉〈ロンシャンの礼拝堂〉など。2016年には、7カ国の17作品が世界遺産に登録され、その中には日本の国立西洋美術館も含まれている。今なお世界中で絶大な人気を誇る、不動の巨匠建築家である。
《日本で鑑賞できる代表的な作品》
国立西洋美術館
フランス政府が日本を含む7か国と共同で推薦していた「ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-」という名称で他の16作品とともに一括して、2016年、世界文化遺産に登録された。日本で唯一、ル・コルビュジエが設計した建造物であり、その特徴が良く表れて いる。インドの「サンスカル・ケンドラ美術館」と「チャンディガール美術館」とともに、「無限成長美術館」というコンセプトのもとに作られている。
東急シアターオーブ
「ル・コルビュジエの緞帳」
旧東急文化会館(1956年~2003年)の映画館「パンテオン」に掛けられていた緞帳はル・コルビュジエの原画をもとに建築家・坂倉準三が設計を任された。当時のサイズは、縦9メートル50センチ、横22メートル80センチ。現在、5分の1サイズに縮小したレプリカが、「東急シアターオーブ」(渋谷ヒカリエ11階)ホワイエに設置されている。
1878年、アイルランドのブラウンズ・ウッドに生まれ、ロンドン、パリで美術を学ぶ。20代後半から様々な工房でデザイナーとして活動を行う。1906年、渡仏し、日本人工芸家 菅原精造に出会い、漆工芸を学び作品を生み出す。当初はアール・デコだった作風は徐々に変化し、1919年に帽子デザイナー、シュザンヌ・タルボットの依頼でパリのアパルトマンのトータル・インテリアを手がけた際には、モダンデザインの先駆けとなる作品が多く含まれていた。以降、インテリア・デザイナーとして高い注目を集め、1922年に自身の店〈ジャン・デゼール〉をオープン。1926年から〈E.1027〉の建築に取り掛かり、1929年に完成。1950年頃から視力が悪化し、事実上の引退となる。1976年、死去。飛行機好きとしても知られる活動的な女性で、生涯に渡り自らのスタイルを貫き続けた、気高く勇敢な女性であった。
《アイリーン・グレイの代表的な家具》
アイリーン・グレイは、シンプルなデザインと多機能を誇り、建物と調和し、住む人々の快適さを追求した思いやりのあるインテリア作品を数多くデザインした。そのほとんどは、自身の建築作品E.1027から生まれている。1970年代にイギリスのインテリア・デザイナー、ゼヴ・アラムによって復刻されたアイリーンの作品は、歳を経るごとに評価され、売り上げも増加。インテリア・ショップのモデルルームでは、ル・コルビュジエの家具と合わせてコーディネイトされることが多い。
Manufacturer ClassiCon, authorised by The World Licence Holder Aram Designs Ltd., London.
ル・コルビュジエ
アイリーン・グレイ
|
8月9日、アイルランドのブラウンズ・ウッドに生まれる。 |
|
10月6日、スイスのラ・ショー=ド=フォンに生まれる。 |
|
|
|
ロンドンのスレード美術学校でデザインを専攻。 |
|
地元の装飾美術学校に入学。彫刻と彫金を学ぶ。 |
|
パリに移り、エコール・コラロッシに入学。 |
|
ロンドンに戻り、ソーホーの漆器修理店で働く。 |
|
教授シャルル・レプラトニエの影響で建築への興味を芽生えさせ、初の建築作品〈ファレ邸〉を建設。 |
|
日本人工芸家・菅原精造と知り合い、漆工芸を学ぶ。 |
鉄筋コンクリート建築の父、オーギュスト・ペレの事務所に入所。 |
|
|
パリに戻り、従兄弟のピエール・ジャンヌレと共に、本格的に自身の建築様式を追求していく。 |
|
|
|
帽子デザイナー、シュザンヌ・タルボットの依頼で彼女のアパルトマンのインテリアをデザインする。その革新性が批評家たちに高く評価される。デザインした家具の中には後に代表作となる〈ビバンダム・チェア〉も含まれていた。 |
|
雑誌「エスプリ・ヌーヴォー」を創刊。ル・コルビュジエの名前を初めて使用する。 |
|
|
ジャンヌレと共同で建築事務所を設立。「300万人の現代都市計画」を発表する。 |
|
タルボットのアパルトマンの成功を受けて、パリに自身の店〈ジャン・デゼール〉を開店する。 |
〈ラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸〉(現ル・コルビュジエ財団本部)を建設。 |
|
装飾家芸術家協会展に出展した、ひとつの部屋全体をデザインした〈モンテカルロ・ルーム〉が建築家の注目を集める。 |
国際装飾美術博覧会に〈エスプリ・ヌーヴォー館〉を出展。アール・デコ装飾の展示が多くを占める中、装飾を廃したそのデザインは衝撃を与えた。 |
|
|
その後の建築史に決定的な影響を与えた「近代建築の5原則」を発表する。 |
|
恋人のジャン・バドヴィッチと共に、カップ・マルタンに〈E.1027〉(建設当初は「ロクブリュンヌの家」という名だった)の建設を始める。 |
シャルロット・ペリアンと共同制作したインテリアをサロン・ドートンヌに出品。 |
|
〈E.1027〉が完成。 |
|
〈ジャン・デゼール〉を閉店。 |
|
〈サヴォア邸〉完成。 |
|
|
|
“自分のための家”として〈テンペ・ア・パイア〉を建設。 |
|
パリ万国博覧会にパビリオン〈新時代館〉を展示するも、注目を集めることができずに終わる。 |
|
パリ万博のル・コルビュジエのパビリオン内に〈バケーション・センター〉のプランを発表する。 |
〈E.1027〉に滞在し、アイリーンに無断で壁に8枚の壁画を描く。 |
|
自身の別荘である〈E.1027〉にル・コルビュジエが許可無くフレスコ画を描いたことで激怒。 |
夏にコロンビアのボゴタで行うプロジェクトに専念するため〈E.1027〉に滞在する。 |
|
|
|
視力の悪化が加速し、事実上の引退となる。 |
|
インドのチャンディガールの都市計画に建築顧問として参加。 |
|
|
〈E.1027〉の傍にたたずむ休暇小屋〈キャバノン〉を建設。 |
|
|
|
〈テンペ・ア・パイア〉が画家のグラハム・サザーランドに買い取られる。 |
|
〈国立西洋美術館〉の建設予定地を見学するために、初来日。さらに東京高島屋で「ル・コルビュジエ、レジェ、ペリアン3人展」が開催される。 |
|
|
〈E.1027〉を自分で所有したいと考え、友人に購入させる。 |
|
|
〈国立西洋美術館〉が完成。 |
|
|
8月27日、カップ・マルタンで海水浴の最中に心臓発作により死亡。享年77。ルーヴル宮で国葬される。 |
|
|
|
グラーツとウィーンで初の展覧会が開催。 |
|
|
10月31日、パリで死去。享年98。 |